過去のコラム |
#6
Ave Maria('04
5/02) #7 愛に燃えるイエスのみこころ('04 6/06) #7 十 主の平あん(’04
7/04) #8 平和の元后聖マリア('04 8/7) #9 Regina sacratissimi Rosarli,Ora pro nob('10/2) #10 愛するものたちのみ死がある(’04 11/07) #11 Buon Natale ('04 12/12) #12 新年明けましておめでとうございます(’05 1/02) #13親が子どもに注ぐ“無償の愛情”(’05 2/27) |
+ Ave Maria ('04 5/2)
美しく花咲き、散っていった当教会の誇る多数のさくらの木は、 今は若葉が青々と茂り、五月の風薫る中、競い合ってマリア様を讃えているかのようです。 そうです。その状況からお分かりのように、“さつきの后”と称される、聖母マリア様の月を迎えました。 皆様、いかがお過ごしでしょうか?
新田原カトリック教会では、毎年恒例のロザリオの信心が教会内ルルドで行われます。 マリア様はこの月をどんなに心待ちにしていらっしゃったことでしょう!! なぜなら、皆でロザリオを唱え、その一つ一つの“めでたし”がバラの花となり、 50個集まってバラの冠が編まれてマリア様に捧げられることは、 彼女にとって最高の喜びであり、楽しみであるのですから・・・・。
そのようなマリア様は、私たちにどのようなお恵み(お返し?)を下さろうとしているのか皆さんご存知ですか? その“お返し”のほんの一部に過ぎませんが、「ロザリオの神秘」聖ルイ・マリ・デ・モンフォー著(エンデルレ書店) を引用して皆様に少しご紹介することにしましょう。
「―(前略)― 黙想をしながらロザリオを唱えるというこの信心をたゆます続ける者のためには、 それを行ったことで、私が臨終の時、罰と全ての罪の完全なゆるしを受けてあげるという報いを授けましょう。 そんなことはあり得ないなどと考えるような不信心であってはなりません。 私は天の王の母であり、王は私を、聖寵満ちみてる者と、よんでくださっているのですから、 それを行うのは私にとっては易しいことです。 又、聖寵に満ちみているので、私は愛する子ども達に好きなだけ存分に 恵みを分け与えることができるのです」―(後略)-
愛する私達に、たくさんの恵みをあげたくてたまらない、 ご自分を頼って来る者には、すぐにでも助けてあげたい、何かをしてあげたい、 といつも心にかけて下さっている母であるマリア様のもとに集まり、思いっきり甘えませんか? 5月はマリア様と私たちとの間にそんなお恵みが満ち満ちている月です。 さあ、みんなでロザリオを唱えましょう!!('04 5/2 タニー) |
われらの心を御身への愛で燃やしたまえ。('04 6/6)
6月といえば、みこころの月です。
しかし残念ながら、新しい“み心の連願”では“愛に燃えるイエスのみ心”と、表現が
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり (イザヤ書53章5節)
精神的にも肉体的にも極限に達し、ついに命までも与え尽くされたイエスのこの愛は、私たちが受け取るには重すぎるほどです。
“愛熱の燃ゆるかまどなるイエスのみ心”に触発され、“われらの心を御身への愛で燃やしたまえ”と唱えつつ、 |
† 主の平安 ('04 7/4)
しばらくの間、天気予報をにぎわした台風も過ぎ去り、梅雨の季節に降らせずに我慢していた分を一気に吐き出したような大雨も落ち着き、最近は日ごとに暑さを増して、夏が近づく足音がすぐそこまで聞こえています。 毎朝、目が覚めてカーテンを開けると、一番の関心事は今日の天気はどうかな?ということです。きれいな朝日を見れたら心は晴れ晴れし、くもりだと、心も一緒にどんより・・・。雨だと、うれしいような悲しいような・・・。という、人間は少なからず天気に左右されるところもあるような気がします。そんなことを考えていると、ある日、天界で交わされるこんな会話が私に聞こえてくるようでした。
“明日は、誰が出勤するかい?太陽くんは、最近、甘くかわいい桃ちゃんたちに熱上げすぎて疲れ気味らしいよ。その前は枇杷ちゃんだったらしいぜ・・・。” “じゃあ、雲君、君が明日は出るかい?熱された大地をたまには潤したらどうだろう?” “そうだな。じゃあ、明日はオレが出勤するか・・・。たまには大サービスで大雨を降らせ、地上の草木を喜ばせてあげなきゃだもんなっ!!その代わり、夏には長~い有給休暇を取らせていただくよ!!で、風君はどうするんだい? “僕は、この前、久々に働きすぎて、みんなにちょっと迷惑かけちゃったような気がするから、少し休むよ。” “そうだね。それがいいよ。少し落ち着いたら太陽君と一緒に出勤して、心地良い風をサービスしたらいいよ。みんな喜ぶぜ!!” “そうだね。ありがとう雲君。君もあまり働き過ぎないようにね。地上に住む人からありがたがられるような働きをしてきてね。” “OK!!まかせとけって!!” “それよりなにより、正社員の僕たちよりパートの竜巻君や雷君、雹さん、霰さんたちは、いま、どうしてるんだろう?元気かなぁ??あまり元気でいられてもちょっと困る気もするけど・・・。” “ああ、彼らは気が向いた時に適当に来るから心配はないさ。俺はとりあえず一週間の出勤予定表を神様に提出してくるよ。” “ありがとう。僕も早く予定を組まなきゃ・・・。なんてったって、僕たちの出勤予定が一週間も前から地上の人々の関心の的なんだからね・・” “そうなんだよな。でもたまにボス(神様)から、急に、この日は雲君は休んで、太陽くんに出勤してもらいたい。ってお願いされるんだよな。どうやら、子どもが遠足を楽しみにして一生懸命お祈りしてたらしいよ。まあ、オレは休むのは構わないがね。” “でも、その反対もあるよね。雨が降ってほしいって、お願いする農夫さんたちもいるしさ。” “そうだな。どっこいどっこいってとこだ。俺たちが計画は立てるが、最終的にはボスの御旨のままにってとこだな。” “僕たちを造ってくれた神様にはやっぱり頭が上がらないよ。神様のお願いは、何でも聞いてあげたいしね。” “おおよ。やっぱり全知全能のボスは世界で一番最高だぜ!!”
このようにして神様の下に提出された出勤簿は、人間の最高の関心事となり、ニュースの終わりには必ずそれが発表されているのです。 “えー、明日の出勤者は雲君です。そして、向こう一週間の天界出勤予定表は次のようになっております・・・・・。” そんな風にニュースの声が聞こえてきたら楽しいですね。 ('04 7/7 タニー)
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わたしたちのためにお祈りください
暑い日ざしが照りつける8月がやってまいりました。 その暑さに負けじと夾竹桃の花が燃えるように咲いているこの月、自然に口ずさ んでしまうのは、この歌です。
夾竹桃のうた
【作詞】 藤本 洋 夏に咲く花 夾竹桃 1982年、日本のカトリック教会は、広島・長崎の原爆投下の日を迎えるこの月の 6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」と定め、この期間に広島教 区と長崎教区では「平和祈願ミサ」がささげられています。 テレビの映像で広島や長崎の爆心地でささげられる多くの人の祈祷の姿を目にする とき、色鮮やかな千羽鶴が、目に飛び込んできます。すると、私の頭には“千羽鶴” の歌が流れ出すのです。
千羽鶴
【作詞】 横山 鼎
この月、原爆で亡くなった方々に思いを馳せ、戦争の愚かさと平和の尊さをあらた めて肌で感じるとき、目を閉じて手を合掌し、まだこの世界で、今だに行なわれている 戦争の早期終結のために祈らずにはいられません。 ('04 8/7 タニー)
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十 Regina sacratissimi Rosarli, Ora pro nobi
10月に入り、朝夕、めっきり寒くなりましたが、いかがお過ごしでしょうか? さて、マリアさまの顔がひときわ輝く“ロザリオの月”が始まりました。 ここ、新田原カトリック教会では、毎夕5:30から、ルルドに集い、 子どもからお年寄りまで、心を一つにして、 マリアさまへバラの花をお届けしております。
先日、机の棚を整理していますと、1枚の紙に再会しました。 それは、ロザリオの信心に熱心な母が、いつか私に送ってくれたものでした。 一体、どこからの、何からの抜粋なのかまったく分りませんが、一部だけご紹介したいと思います。 それはロザリオを唱える者への“聖母マリアの約束”でした。
『 聖母マリアは聖ドミニコに、次のような約束をなさいました。 ● 私はロザリオの信心に熱心な魂を煉獄から速やかに救うでしょう。 ● ロザリオを通してあなたが願うことを、あなたはきっと得るでしょう。 ● ロザリオを広める人々は、自分が必要とするあらゆる時に、私を通して助 けを得るでしょう。 ● ロザリオを信心深く唱える人は、すべて私の愛しい子供たちで、イエズス・ キリストの兄弟・姉妹なのです。 ● ロザリオの信心は、天の国に入る約束の特別なしるしなのです。』 ―(15個中、5つ抜粋)― ここにご紹介しました、このすばらしい約束は、受けるはずのお恵みのほんの少しにす ぎません。 天におられます人類の母マリアさまは、この地上に生きる母親を通して、この月、特別に 与えようとしておられる恵みを、再び思い起こさせ、それを十分に受けるように導いてく ださったかのようです。 教皇様がお定めになった“ご聖体の年”も、今月から始まりました。 心をあわせて、ご聖体・ロザリオの信心を大切にしつつ、秋晴れの空の下、声高にマリア 様と、イエス様を賛美したいものです。 ('04 10/2 タニー)
十 主の平安
「愛する人たちにのみ死がある。そして愛する人たちには死はない」
これは、昔読んだ本で出会って以来、私が忘れられない言葉である。 毎日、新聞やニュースで、今まで、どこかで生きていた誰かが亡くなった 事が伝えられている。 自分が、その人とは面識がなく、全くの赤の他人という関係であれば、 それは、ただの情報としてしか捉えないであろう。しかし、その故人を知る 者にとっては、胸が張り裂けるような一大事の出来事なのである。彼らにの み、故人の“死”というものがあり、同時にそれを体験した彼らの心にのみ、 故人は永遠に生きる者となるのである。
私達は、第三者の立場から同情・共感は出来るが、なかなか涙を流し、心底悲しむまではい かない。もちろん、そうであろう。この世界で亡くなっていく一人一人のために涙を流していて は、一分一秒休むことなく、絶え間なく流さなくてはならなくなる。だから、せめて自分に近い 関係である人のためには、しっかりと、その“死”という別離の悲しみを受け入れ、同時に、永遠 の生命に生きる喜びを共に感じるという責任を、地上に残された者は、果たさねばならないよ うな気がするのである。そして、もちろん、彼らの永遠の安息のために祈ることも忘れてはなら ない。
11月、死者の月。私達の心には、どれだけの人が、自分の記憶の中に、そして心の中に生きて いるのだろうか。この月、今は亡き人に思いを馳せ、この世に生きる私達は彼らのために祈り、 十分に彼らを偲びたいものである。 (’04 11/7 タニー)
だんだんと寒さも増し、冬の厳しさを肌で実感する 季節となりました。 いかがお過ごしでしょうか?待降節も始まり、主の 降誕を迎える準備をしている今、私の頭に流れてくる 曲はといいますと・・・
♪サンタクロースさーん♪ ♪クリスマスには、やっぱりケーキを、食べますかぁ?♪ ♪今年はどんなプレゼント、靴下に入れてくれますか?♪ ♪寒いから、風邪ひかないで。空飛ぶそりから落ちないで♪ ♪太ってるからー、煙突に気をつけてねー♪ と、いうようなものです(笑)
聖歌でなくて申し訳ない・・・(笑)
子どもの視点から歌ったこの歌・・・。実はとても素敵な歌詞だと思いませんか?プレゼント を運んでくれるサンタクロースさんのことを、とても細やかに気遣っているのです。ただ、トナ カイの引くソリに、たくさんのプレゼントを積んで自分のところに来てくれる、白ひげのやさし そうなおじいさん!という、夢物語ではなく、“サンタクロースさん”を一人の人間として、子ど もの視点でいろんな心配をしてあげているという、本当に心温まる歌に感じるのです。
クリスマスと言えば、ポインセチアにまつわるお話や、リトル・ドラマー・ボーイという歌をも 思い出します。どれもこれも、心温まるものばかり・・・。そう考えますと、クリスマスの本当の意 味はそこにあるのではないでしょうか?幼子イエス様は、まさに御父が、世の光、救い主として 地上に贈られた、温かな、そして、真の愛が込められたプレゼントなのです。クリスマスの喜びは 神様がそのようなプレゼントをしてくださったという真心を感じ取る喜びであり、また、目には 見えない、心と心のふれあいや温かさがもたらす幸せが、クリスマスの真の喜びと言えるでは ないでしょうか?
“クリスマス献金”というものがあります。これは間接的にする献金ですので、どこの誰の手に 渡っているのか分かりません。しかし、心のこもったその献金を受け取った、どこかの誰かが、き っとこの厚意に感謝しているはずです!目には見えないところで両者の心が一つに結ばれ、 一つになる・・・。一人一人がそんな体験をする温かい世界に、イエスさまをお迎えできればイエ スさまへの最高のプレゼントとなる事でしょう。
巷では、クリスマスの本当の意味をまだ知らない人たちも、クリスマスを祝います。“クリスマ ス”というもの自体が一人一人の心に喜びをもたらすということはとても素敵なことです。しか し、この喜びが一体どこから来ているのか、本当の意味に早く気づいてもらえるよう、私達の心 にキリストの小さな光をともし、周囲にその温かな光を分けていけるようなクリスマスを迎ら れたらいいですね。 ('04 12/12 タニー)
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神さまの祝福が多き年となりますように・・
本年もどうぞよろしくお願い致します。
年末年始が珍しく雪に覆われました。 31日の大晦日には、さまざまな感情と 一年間付き合って疲れた心を、真っ白な雪 を通して洗い清め、癒してもらい、元旦の しんしんと降る雪は、真っ白にリセットされ た新しい心で、一年をスタートする決意を新 たにしてくれるものとなりました。
新しい年の初めの清々しい心には、自然と新たな希望や豊富が沸いてくるものです。 と、同時にそのような自分への励ましかのように多くの人からの年賀はがきが届き、 お正月は本当にうれしく喜ばしいものです。
年賀状は、今現在、関わりのある人、そして過去に付き合い、親しくなった知人、 友人等と、新年の挨拶を交わし、互いの幸せを祈り合います。 しかし私達は、最も親しい存在である神様に、残念ながら年賀状を送ることができ ません。ですけれども、元旦の0時ミサや日中のミサにあずかることができますよね? そこで、神の母聖マリアを祝うと共に、父なる神様に年の初めの挨拶をし、お年玉をも らったりと、親に甘える子のように、たくさんのお願い事をするのです!きっと、父な る神様は教会に集うすべての人を優しい目で微笑みながら天から見ておられることでし ょう。
この一年、どのような年になるかわかりません。だからこそ、私たち人間はお互いの 幸せ、無事を願い合うと同時に、神様に祝福と恵みを、新しい年の初めに願いましょう! 神様がなさることはすべて時宜に適って美しいのですから、すべてをお任せしましょう。
どうか、この2005年という年が神様に祝福された幸多き年となりますように、と祈り つつ・・・・('05 1/2 タニー)
「 親が子どもに注ぐ“無償の愛情”を、お金に換算して考えたことありますか?」 先日、森司教様の講話を聞く機会に恵まれ、私はこの言葉にハッとさせられました。 とてもわかりやすく、興味深いものでしたので、それを皆さんに少しご紹介したいと思います。 (具体的に表現するために、少々、枝葉をつけています。) 私達人間は、この世に誕生した時から、親の世話になりながら成長します。 ところで・・・・ 母親はいちいち、自分の子どもに生活費等の費用を請求はしません。無償の愛を注いでいる わけです。 しかしここでは、あえて母親にこう言って頂きましょう! 「あなたの生活費はすべて私たちが立て替えておくからね?あなたが大きくなって、返せるよう になったら,そのときに返済してもらうことにするわ」という具合に・・・・。 * ここでは20歳までのものを計算してみましょう。 「早速だけど・・・今は自動販売機でジュースを一本買うと安くて100円・・・だから、あなたに飲ま せてあげるお母さんのおっぱいは5分で¥100ということにしておきましょう・・・・。 そして、あなたをお世話する時間の事だけど・・・・一日中あなたにつきっきりよ?オムツ替えや 入浴などの身の回りのお世話、あなたが泣けば抱っこしてあげたり、お散歩に連れて行ったり。 そうねぇ・・・ベビーシッターを1時間¥700で雇ってることにしてあげるわ! それに加え、残業手当とボーナスもつくことになるのよ?だって、自分の時間を割いて、あなたに 一日中構ってるんですもの! 家賃や水道光熱費は一応・・・割り勘ということで・・そのつもりでよろしく! 食費については、乳離れした時点から一食の代金を大サービス価格で¥300!でいいわ。 お母さんはサービス欲旺盛だから・・・。 幼稚園、小学校、中学校、高校、大学等の学費は相当なものになるわね・・・。あなたに立派に 成長してもらいたいから、ママもパパも一生懸命働いてあなたの学費に当てるわ。 大雑把に言ってこんな感じでしょうか?(もっと細かく請求したい方はご自由に請求をどうぞ!) そしてざっと計算してみますと・・・
①お乳代 ¥876,000 (1日1時間¥1200×730日(2年間) ) ②一般的なお給料 ¥35,770,000(1日7時 ②一般的なお ②給料 ¥35,770,000(1日7時間勤務¥4,900×7300日(20年間) ③気まぐれボーナスと残業手当分 ¥1,000,000 ④家賃 ¥2,400,000 ( 1ヵ月10,000×240ヶ月) ⑤水道光熱費 ¥480,000 ( 1ヵ月2,000×240ヶ月) ⑥食費 ¥6,480,000 (〔1日3食¥900×30日〕×240ヶ月) ⑦学費 ¥50,000,000 (幼稚園~大学まで・・大サービスで) ⑧その他 ¥10,000,000 (娯楽・医療・生活・税金・等) ⑨利息 ¥10,000,000 (20年間分の借金の利息等として)
「1億1700万6千!!」・・・驚きの数字です!!・・しかも、現実にはもっとかかってるかもし れません・・・・。この額を、一生かかって返済するというのは大変なことでしょう。 そう考えていきますと、親がどれだけ子どもに投資していることか・・・。親の愛は無限であり、 無償であり、そのすべてを返すことは無理なほどのものなのです。しかもここではお金のことしか 計算していませんが、そのほかにも多くのものを受けているのです。毎日の細やかな配慮や心配、 愛情、子供の立場ではまだ理解できない、親になって見なければわからない多くの苦労も無償で 注がれているのです。 ここまで手をかけて子どもを育てた親が報われるのは、子どもが親の手から離れる時、つまり 結婚などという形で独立する時、「お父さん、お母さん、今までありがとうございました・・・。」という 感謝のこの一言で報われるといいます。このほんの一言の中に、かけがえのないものを見出すこ とが出来るのです。 さて、前置きが長くなりすぎましたが・・・・。 神様は私たちに、見える愛の形として、“無償の愛”のあらわれである独り子イエス様をこの世に 送ってくださいました。 イエス様は私たちと同様に、両親からたくさんの愛情を受けて成長しましたが、私たち人間はその イエス様を肉体的にも精神的にも痛々しいほど傷つけ、しまいには十字架につけて殺してしまいまし た・・・。私たちに注がれている多くの愛情に気づくことが出来ずに・・・。 私たちが今過ごしている四旬節。この期間は“回心の時”といわれています。つまり、神様に心を向ける時です。 それはどういうことでしょうか?自分の心の中を静かに思い巡らし、人間の弱さ、罪深さを認め、反省すると同時に、神様 への“感謝の心”を忘れていたことに気づく時でもあるのではないでしょうか。神様のあまりにも広く、深い愛の中に浸りす ぎて、今まで受けたたくさんのお恵みを感謝することを忘れてしまっている自分を省みる時でもあるように私は思うのです。 私達の父である神様が報われるのは、私たち人間を救うために投資した、かけがえのない愛する独り子イエスの存在を 心から感謝し、彼が私たちのために受けた痛み、担った苦しみに共感することではないでしょうか。そのときに心から溢れ 出る気持ちは、きっと放蕩息子に通じるものがあると思います。 この四旬節、人間となったイエスを導き続けた神である父の父心、イエスを生み育て愛情をもって 見守り続けたマリア様の母心、そして、そんなイエスが生命をかけて愛した私たちへの本物の愛の心 を感じ取り、感謝することができますように・・・・。 そして、イエスと共によき復活を迎えることができますように・・・。('05 2/27 タニー)
主はまことに復活された。アレルヤ!
主のご復活 おめでとうございます!
四旬節とういう期間を、愛するイエス様の最も近くで、イエス様と共に 苦しみ、耐え忍び、十字架につけられたのなら、イエス様の復活にも喜 びのうちに、共にあずかることができるのでしょう。
今年の四旬節の私個人のキーワードは・・・ 「 誰かが私のいのちを奪うのではなく 私が自分のいのちをかける 」 という、『教会の祈り』に出てくる言葉でした。
イエス様は私達のために・・・十字架につけられた・・・・。 私たちのせいで・・・苦しみを受けられた・・・・ 私のせいで・・・わたしの・・・
と言っていては、きりがないほど当てはめることができる私たち人間です。
しかし、イエス様は、そんなこと、これっぽっちも思ってもいないのです。
「私のいのちは奪われるのではない。 私は自らすすんで、自分のいのちをあなたのためにかけるのだ!」 と、きっと、イエス様はそうおっしゃるのです。
受身ではない、イエス様の積極的な態度に倣うと同時に、いのちをかけて愛して くださったという、自分が受けた愛の大きさをかみしめ、それに応えた生き方をして いきたいものです。 そんな私たちの姿こそが、イエス様と共に復活を迎えた、生きている自分の“復活 の輝く姿”のような気がするからです。 ('05 4/03 タニー)
アレルヤ アーレルヤー アレールーヤ
栄光をあびて神の民はよろこび、神に仕え高らかに歌う。 彼らの口には神への賛美、・・・・・神のわざをつげるために。
自然界も 教会も賛美の歌でこだまする復活節と、五月主の蘇りと共に、 わたしたちの蘇りに希望をふくらませ、主をマリアを通して人類に与えるべく、 父なる神が選んだ聖母を讃え、マリアの喜ばれるロザリオを祈ることで、深く 聖母と御子に結ばれ確実な一歩一歩を、天の国に向かって歩みたい。
その歩みをこの地、先祖が切り開いてくださった新田原で踏み出すことに不安 がない訳ではないが、すべてを持ち見守っておられる父なる神に信頼し、共に歩ん でくださる主と共に、そして強力な扶助者手である聖母の導きを願いつつ、信仰を 深め、強めて頂きつつ奉献生活を続けたい。
主よいつもわたしたちといっしょにお留まりください。 日々の歩みが賛美と感謝に変わりますように。
新田原教会のみなさまどうぞよろしくお願い致します。
恵み ’05 5/08
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