●過去のコラム
「神の言葉(疲れを取る方法) 」
2007年1月初めの新聞記事に、あるカレンダーに載せられた飯塚市の詩人、山本よしきさんの次の詩が紹介されていた。 タイトルは、「神の言葉(疲れを取る方法)」。
疲れを簡単に取る方法がある 「疲れた」という言葉を「幸せ」という言葉に変えるんだ 今日はいっぱい仕事をして「幸せ」 一日中立ちっぱなしで足が「幸せ」 パソコンとにらめっこで目が「幸せ」 幸せ幸せあー幸せ バカバカしくなって疲れがふっとんでしまえ えっ僕頭疲れているじゃないって いいえ僕の頭「幸せ」です
この詩を紹介していた新聞記者の方が、書いていた。 「多くの人が『もうだめだ』と思ったら、きっと社会全体がだめになります。だから『嘆き』を『課題が見つかって良かった』に置き換え てみようと思います。そして住みよい社会にするには何が必要なのか、一生懸命考えていこうと思います。もちろん考えるだけでは物事が前進しません。小さなことでも行動に移すことです。」
2007年、様々なことがあって『疲れた』か…? いいえ、様々なことがあって『幸せ』だった…。
自分自身に聞こえてくる呼びかけだ。『幸せ』とは簡単でないとわかっている。けれど本物の『疲れ』は、きっと本物の『幸せ』に違いない。 2008年もいろんな出会い、関わりをもち、何が必要なのかを一生懸命考え、自分の出来る奉仕を行なって『真剣に疲れたい』。そして『幸せになりたい』ものだ。
主任司祭 ペトロ 杉原 寛信
「 飲 み ま す か 」 6月のある日、所用のため福岡へ出かけた。天神近く赤坂から長浜へ行く途中の交差点、赤信号で止まっていた。その時、近くを通りかかった学校帰りの小学生四人(男の子一人、女の子三人)。体つきからして男の子が上級生だろう。六年生かな?小さな女の子は、おそらく四月に小学生になったばかり。ランドセルがとても大きく不似合いに見えた。あと二人の女の子は三年生くらいか? その子供たちがこんな場面を見せてくれた。 男の子が自分の水筒からお茶を飲もうとして、フタのコップに注ごうとしたが、一滴もなく空っぽ。それを見て一人の三年生くらいの女の子が、自分の水筒を取り出し、コップに一杯注ぎ、男の子に差し出した。男の子がゴクリとおいしそうに一息に飲んで、『ありがとう』とコップを女の子に返した。 その様子を、信号待ちの車からじっと見ていると、なんとなくのどの渇きを覚え、お茶を飲みたくなった。するとあの女の子が、自分たちを見ている私に気づき、今度は私に向かって水筒とコップを差し出し、ニッコリ笑って『飲みますか?』という仕草をした。その時、信号が青に変わった。声は聞こえないが、お茶を差し出した女の子に『ありがとう』と一言、お礼を言ってその場を離れて行った。 あの女の子の差し出したお茶は飲んでいないが、おいしい思いやりを飲ませてもらった。味わい深く、渇いた心にしみとおり、何かしら元気が出た。 口に含まなくとも、人を潤す飲みものはあるものだ。 人の渇きを潤すとはこういうことか。 夏本番を迎えた。私たちの人生にはいろんな厳しい暑さがある。自分の持っている水筒からお茶を一杯注ぎ、出会う人に『飲みますか?』と差し出したいものだ。 主任司祭 ペトロ 杉原 寛信
「 ツ バ メ 」
司祭館の前にあるコンクリートの車庫。天井に長細い蛍光灯が一本。その笠のところに、昨年ツバメが巣を作り、二羽のヒナが巣立った。元気よく車庫から飛び出ていた姿が思い出される。 そして今年も、あの蛍光灯の笠にツバメが巣を作ってくれた。二羽。お母さんツバメと元気よく飛び回っている。 ある土曜日の朝、事件が起きた。おそらく飛べるようになったばかりの幼いツバメだろう。飛び回るのが楽しくて仕方がない。車庫のすぐ隣にある教会聖堂。扉と窓が開いている。土曜日の朝は聖堂掃除の日。あのツバメは幼い冒険心からか、興味をもって入ってみたのか。そこは高い天井と不思議な景色。初めは楽しそうに飛び回っていたのだろう。かなり時間が経った。そろそろお母さんのところに戻ろう。しかし出られない。所々に色ガラスをはめ込んだ聖堂上部のガラスの壁。外の景色は透けて見える。何度も勢いよく飛び出そうと試みるが、ガラスの壁にぶつかって跳ね返る。元気のよかったさえずりが、不安そうな泣き声に聞こえてくる。どこか出口はないか、聖堂の中をもがき飛び回る。まるで大きな鳥籠に入っているよう。 何とか外に出してやりたい。すべての扉、窓を開けておいた。窓越し外に別のツバメが見える。お母さんツバメなのか。内と外で心配そうに互いにガラスをつつき合っている。 そのうち飛び回って疲れたのか、ある場所にとまった。祭壇後方の大きなイエス様の十字架の上に。そうだ、どうしようもなく苦しくなってイエス様にとまったのだ。 その日は結婚式があった。そして土曜日夜と日曜日の朝、計三回のミサが捧げられた。あのツバメ、十字架の上から結婚式の新郎・新婦を見守り、三回のミサでは、信徒の方々の祈り歌う声を聞いていた。新たな旅立ちを見、祈りにあずかったツバメ。九時のミサ、気付かなかったが、『感謝の賛歌』を歌っている時に、開けていた窓から飛び出していったそうだ。 新たに飛び出せた。十字架のイエス様にとまり、みことばを聴き、祈りを聴き、ミサに与ることが出来た。 あのツバメ、自分の身に起こった出来事を、お母さんに話して聞かせているのかな……。今日も、外でツバメのさえずりが聞こえる。 人も人生において、あのツバメのように様々な場所に入り込み、飛び出す。そして様々にさえずる(叫ぶ)。今日、私はどこへ飛び出そうか…。どこにとまろうか…? 主任司祭 ペトロ 杉原 寛信
主任司祭 ペトロ 杉原 寛信
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#1 私たちと御聖体('03 9/07) #2 神がおさだめになった結婚制度('03 10/11) #3 キリスト誕生の意味('03 12/14) |
イエスは言う。「あなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と。 カトリック教の命は、御聖体の尊い秘跡。御聖体の秘跡がいかに大切か聖書の中に力説されている。 しかしキリストの言葉を聞けば聞くほど、群集はついていけなくなる。 ほとんどがキリストに背を向け「こんな話を聞いていられようか」と離れ去った。 キリストは言う。「御聖体は私たちの命」「御聖体を食べるものは永遠に生きる。」 人生の中で大切であればあるほど理屈ではわからないのです。 御聖体は、祭壇で上での一つの奇跡です。ゆえに神の教えなので、無条件で信仰することです。 2000年たった今、キリストから私たちにも問いかけられているのかもしれません。 「あなたの一週間の中の生活は御聖体においてますか」「キリスト者魂にいきていますか」 「御聖体の秘跡に慣れっこになってないだろうか」と。 キリストから離れてレジャー、仕事に懸命になりすぎてはないだろうか。反省を促されている気がする。 御聖体のありがたさ、必要性を感じない有様でなく、ペトロが答えたように、 「主よ、わたしは誰のところにいきましょう。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。」 という言葉を思い起こし、御聖体からイエスの生き様のパワーをいただきたいものです。('03 9/7 Sr.M) |
神は、人間を男と女という性の違いでお創りになった。聖書はいう。 「人が一人でいるのはよくない。彼に会う助けるものを創ろう。(創生記2章)」 そして、結婚制度をおさだめになった。 人生には大切な節目がある。誕生と死に並ぶ結婚は、人生にとって重大で厳粛なものである。 我々人間は、最も神に似ている存在。神の完全な姿に近づくよう努力するのが人生である。 しかし、並大抵の努力では及ばない。大きな理想であるが故に、2人で力を合わせて、 不足な点は互いに補い合い与え合い、人格形成を築く。 このように結婚という尊い使命を考えると身のしまる思いである。 飽きたから、嫌いになったからなど、利己主義的考えからの離婚は考えられないことである。 このように重大な使命を背負っているので、結婚にあたっては、慎重に相手を選ぶ必要がある。 一時的な気持ちで望んではならず、カトリック信者としての信仰に基づく結婚観をもって、 新しい人生の門出としての出発ができるよう祈る。('03 10/11 Sr.M) |
私の荒れすさんだ心にキリストが誕生するなら、キリストと出会うなら、
私は変わるのでしょうか。皆さんはどうお考えですか。
教会は、クリスマスにイエスが生まれたことだけを記念するのではなく、
救いのために命を捧げられたイエスの、その生涯を思い起こします。
使徒パウロのテトスへの教会への手紙 2・11~14をじっくり黙想してみましょう。
”すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、
私たちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で思慮深く生活するように教え、
また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、
私たちの救い主であるイエズス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
キリストが私たちのために、ご自身を捧げられたのは、私たちをあらゆる不法からあがない出し、
良い行いに熱心な民をご自分のものとして清めるためだったのです。”
皆さん、クリスマスは救い主である神と出会う新しい出発の日です。
本当の真実の喜びに出会うために、カトリック教会に足を運んでみませんか。('03 12/14 Sr.M) |
四旬節がスタートしました。
四旬節とは「イエスの受難を思いながら復活を準備する40日の期間」という意味だそうです。
最初の人間アダムとエバが傲慢のために犯した罪によって、神との関係が断ち切られました。
アダムとエバから生まれた人間のために、神は見捨てることなく、
御一人子イエスをこの世に遣わして人間の罪を背負い、十字架につけられ血を流したのです。
非常に厳しい試練を耐え抜き輝かしい復活をむかえるのです。
私の洗礼の恵みを思い起こすと、イエスに倣って、
十字架の後にくる復活を信じる生き方をしなければならないと思うのです。
神からこんなにも愛されている人間のわたしたちですから、
神と神がお創りになった隣人を大切にするため、
この四旬節の期間に何をすべきか、どのように過ごしたらよいのか、反省してみましょう。
私の良くない所を直す。傲慢、贅沢など。
そして、人を優先させる愛、犠牲の伴う愛、お祈り、愛徳、献金、手伝い、節制など、
償いの業としてお捧げするなら、きっと輝かしい復活を迎えることができるのです。
1つでもいい、5つ努力できればなお良いです。
神のみことばに耳を傾け、ご聖体のイエスの愛に恵みをいただきながら、
心の改心に努力してまいりましょう。('04 2/29 Sr.M) |
主はまことに復活された、アレルヤ!!主のご復活おめでとうございます。
主の復活を祝うこの時期、自然界も新しい生命が次々と芽生え、 私たちと共に、全てのいのちの源である神様を賛美せずにはいられないかのようです。
さて、皆さんはどのような四旬節を過ごされましたか?私はこの期間、こんな言葉に出合いました。 これは偶然にも私の目の中に飛び込んできた、古ぼけた置物に刻まれていた言葉です。 ご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが・・・・。
そうです。知恵の書です。“知恵の書”というだけに、この言葉は、四旬節を過ごしていた私に貴重な教訓 (四旬節中ならではの解釈の仕方ですが・・・。)を与えてくれました。
年に一度めぐってくる四旬節。かれこれ私は何度この時を過ごしてきたことでしょう。 もう、いまでは自分の歳を数えるのに自分に与えられた十の指では数え切れるものではないものになっているのですが・・・・。 この四旬節という定められた期間を利用して、この知恵の書のいうところを実行していれば もっと“とうといもの”となっていたのではないだろうかと、悔やまれてなりません。
この聖い期間、イエス様の心身を傷つける痛みと苦しみ、悲しみ、涙。 そしてそのような中でも決して忘れることのなかった私たち人間への愛、父への信頼等等、 キリストの姿に学ぶところはたくさんあります。 そんな人間と全く同じ感情をもった主のもっとも近くで、主と共に過ごしていたら、 私はもっと“聖いもの”と変えられていたのではないだろうか、 そして、何ものにも代えることのできない貴重な時間を過ごせたのではないだろうか、 主と共に苦しみ、主と共に死に、主と共に復活する喜びは今の何倍にもなったのではないだろうかと、考えるのです。
そんな風にしゃがみこんで涙する私に主は、“マリア”と、マグダラのマリアに呼びかけられたあの日と同様に、 私にも名指しで呼びかけてくださることでしょう。 そして、180度振り向いた時、真に主と出会い、その愛の広さ、深さに触れ、 主と共にまた、新しく生きていけるのではないでしょうか・・・。
これからも何度となくめぐってくるこのときを、年々主とのかかわりを、少しずつでも深めていければと思いつつ、 復活の喜びのうちに、また新たな希望を抱く今日この頃です。('04 4/11 タニー)
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